第15回年賀状思い出大賞

2023.10.13

 大切な人との懐かしくも温かなストーリーがよみがえる、かけがえのない年賀状文化。㈱グリーティングワークス(德丸博之代表取締役会長)が企画し、日本郵便が後援する「年賀状思い出大賞」は第15回を迎え、応募総数は1万2000点を超えた。全国から寄せられた863作品の中から、各賞に輝いた感動の受賞作を全3回にわたり紹介する。

大賞 ハト 様
「真っ直ぐな信頼」

 大切にしている年賀状がある。それは三十年以上前に届いた恩師からの年賀状だ。
 当時、私は中学三年生で、顧問の先生からバレーボール部の部長に任命されてしまった。私にとってそれは晴天の霹靂で、何度も無理だと訴えた。けれど先生は知らん顔。気が小さく、はっきり物が言えない私には重責だった。

 大好きな部活から逃げることもできず、それからは毎日悩む日々。人任せでやりたい事をやっていた時はあんなに楽しかったのに。チームをまとめるため、時に憎まれ役にもなる。私は先生を心底恨んだ。
 そんな中で迎えたお正月。先生から年賀状が届いた。口数の少ない先生から「お前ならできる。お前だから任せた。私はお前を信じている」と達筆な文字でハガキいっぱいに書かれていた。定年間近の立派な大人から向けられた真っ直ぐな信頼に、私は体中から感動したのを今でも覚えている。
 あの年賀状はその後の人生をずっと励まし続けてくれた。「私ならできる」と。

準大賞 岡谷 美穂 様
「年賀状が変えたふたりの人生」

 二〇二〇年一月一日。私に思いがけない人から年賀状が届いた。他県に住む会社の同期からだった。あまり話したことはないけれど、とにかく元気で好感がもてる人。それが私の彼への印象だった。そこには、お互いの日々の成長を願う内容と、何気ない「機会があれば一緒にご飯に行きたいな」という一言があった。私は新年から驚きと嬉しさでいっぱいになり、すぐにお返しの年賀状を書いた。
 それから私達は、遠距離恋愛ながらもデートを重ね、この度めでたく結婚に至った。あの一通の年賀状が、私達の人生を大きく変えた。年賀状は少し距離があるけれど、仲良くなりたい人にも送れる最強のツール。

 二〇二三年一月一日。私の胸が高鳴る。私は今、年賀状の差出主と同じ名字を名乗っている。
 「あの年賀状がなければ、私達結婚なんてしてなかったよね。本当にありがとう」微笑みあう二つの背中があった。

日本郵便賞 千葉 顕 様
「初めてのアルバイト」

 あまり雪が降らない地方に降った、十数年振りの大雪。僕の人生初めてのアルバイト、年賀状配りは雪景色でスタートした。
 普段乗っているマウンテンバイクとはまるで違う郵便局の自転車を漕いで、雪の街を駆ける。年賀状を汚さないよう、投函する度に手袋を外す。一通一通、届ける毎に指の感覚が無くなっていく。なぜ、こんな大変なことをしているのだろう。今すぐ辞めてしまいたい、そんな想いが脳裏をよぎる。

 「郵便屋さん年賀状下さい!」小学生くらいの男の子が寒空の下に立っていた。「もしかして、ずっと待ってたの?」「うん!年賀状もらうの初めてだから、待ちきれなくて」。男の子に年賀状を手渡す。「ありがとう!郵便屋さん」。男の子は年賀状を手に取ると、家の中に戻って行った。
 ただのアルバイトのつもりだったが、男の子にとって自分は郵便屋さんだったのだ。悴んだ手を握り直して、僕は再び年賀状を配りに走った。

挨拶状ドットコム賞 池水 裕一 様
「家族の歴史」

 我が家は平成二年に子供が生まれて以来、毎年写真年賀状を出してきました。
当時は写真年賀状の黎明期。多くの子育てファミリーが工夫を凝らして作成していたので、それを元日に見るのが一番の楽しみでした。互いの子供達の成長を喜び合う感じで、我が家も旅行先や日常の風景を収めた子供二人との家族写真で作っていました。
 時は流れ、子供が中学生になり、一度ペットだけの年賀状にしましたが、毎年楽しみにしている妻の友人からの要望で、家族写真を復活させました。やがて下の子も高校を卒業する頃には、写真年賀状を送ってくれる人は少なくなり、うちもそろそろ止めればと妻に言われました。


 しかし私にはある目的があり、 子供達が巣立つまで続けました。そして息子や娘の婚約者が我が家に遊びに来た時、それは叶いました。二十数年間の家族の歴史を見てもらい、我が家に親しみを感じてもらいたかったのです。作り続けて本当に良かったと心から思います。孫も生まれ、次は子供達が年賀状で歴史を作る番です。