インタビュー 橘慶一郎衆議院議員(自民党郵活連常任幹事)

2024.06.10

 折しも元日に発災した「令和6年能登半島地震」は、衝撃とともに新たな課題も浮き彫りになった。自民党の「郵便局の新たな利活用を推進する議員連盟」(山口俊一会長)の橘慶一郎常任幹事は、「郵便局の防災拠点」的な機能に期待を寄せている。

郵便局起点に分散型の安全保障を

 ――「令和6年能登半島地震」では橘先生の地元、富山でも被害はひどいものでしたか。
 橘議員 奥能登のように避難が続くことや郵便局機能が長く止まることはなかったが、富山県の半島の付け根、海岸線沿いの地域は液状化でかなりの被害を受けた。
 プレートとプレートのぶつかり合いで、能登は何百年かの間に数回隆起している話も後から聞いたが、昨年後半から震度5程度の地震が頻発する中でも、あそこまでの震災が起きるとは誰も想定できなかった。
 奥能登の建物の損壊はひどかったが、日本海側は壊れていないように見えても家が傾いたり、氷見市、高岡市、射水市、新潟県含めて液状化の被害が広範囲で広がったりした。

 ――東日本大震災の復興副大臣を務められた眼で能登地震との違いをどうご覧になりますか。
 橘議員 2016(平成28)年~17年、18年~19年の2回復興大臣をさせていただいた。東日本大震災は地震による大津波と福島第1原子力発電所事故の二つの大災害だった。津波地域は防潮堤を造って高台に家を移転させること、福島は放射能除染作業で徐々に住める所を増やし、町機能を取り戻す仕事をさせていただいた。
 一方、能登は一番被害のひどかったのは半島の先端。道路が液状化により破損した。物資一つ届けるためにもアクセスが難しい。今後、半島部は何があっても壊れない道路を一つでも造ることや、一時的には自給自足ができる準備をしなければいけないと思う。
 東日本大震災も沿岸部が大被害を受けたが、内陸のどこからでもはしご状に被災地に支援に行けた。ところが、能登は地面が隆起し、海からも入れなくなった。震災から4カ月近くが経過した今でも5000~6000人の方が避難されている。水道管がやられて約4000軒が今も水を自由に使えないなど復旧は困難を極めている。
 発災は冬の真っただ中だったが、灯油を届けても、今の時代は石油ストーブがない。ファンヒーターは電池がなければ灯油があっても動かない。40~50年前のように囲炉裏や炭も備えた方がよい。
 水もペットボトルがどんどん届けられ、飲み物には困らなかったとしても、トイレやお風呂の水が大変。防災用の井戸を掘り、下水管は合併浄化槽を一部残すような形にしておけば、いざとなった時に生き残れる。

 ――郵活連の常任幹事として民営化法の見直しをどうご覧になりますか。
 橘議員 約2万4000局の郵便局ネットワークをどのようにすれば維持していけるかが、日本全体の問題として改めて問われている。福島県浜通りには原発事故で一時期誰もいなくなった地域もあり、荒れ放題になったが、除染して双葉町や大熊町にも人が住み始めたことで、見違えるように生き生きときれいになってきた。
 人が住んでいてくれることは究極、国家の安全保障につながる。人も老化し、毛細血管が少なくなることで肌が荒れるそうだが、人の住まない地域が増えると国土が荒れる。
 江戸時代、人口約3000万人でも過疎地に人が住んでいた。約1億2000万人は人口減少で約8000万人になるといわれているが、江戸時代の2~3倍多い。自然豊かな小さな村や町、集落等に人が暮らし続けられ、災害時も生活できるよう自然も生かす自立分散型社会の構築が、能登の教訓として浮き彫りになった。
 文明化は便利だが、人はぜい弱になる。農協や地域金融機関が撤退し、支所も減っていく中、地域と向き合い、公的な役目を果たしながら防災拠点の役目を果たせるのは郵便局しかない。対価の在り方を含めて今、考えなければならない。