シンポジウム「沖縄郵政を語ろう」

2023.01.18

 島々から成り立つ沖縄には199局あり、37の有人離島のうち25島に郵便局がある。郵便局が地域に唯一の金融機関となる島は12島。町長や村長の方は「郵便局があるおかげで人が住め、国土が保たれている」との思いを共有する。そうした沖縄の地で昨夏、日本郵政グループのOB代表6名(写真前列)の方々が語り合う沖縄復帰50周年特別企画「~沖縄郵政を語ろう~シンポジウム」が開催された。主催者は本島南部地区連絡会の伊志嶺豊和主幹統括局長(全特理事/沖縄地方会会長/宮平)、後援は沖縄支社(久田雅嗣支社長)。人を〝つなぐ〟役目を果たす郵政事業の価値が改めて浮き彫りになったシンポジウムの一部を、資料を基に紹介する。

人を〝つなぐ〟役目を未来に継承

 野原常男氏(那覇中央局長等歴任) 戦後、沖縄では「B円」と呼ばれた米軍発行のお金が流通し、1972(昭和47)年5月15日の本土復帰と同時に歩行は左から右側通行、パスポートなしで本土に行けるようになった。米㌦から日本円の「通貨交換」の6日間、窓口は大混雑。慰霊碑「逓魂之塔」は沖縄戦や第2次大戦で亡くなられた逓信職員505名の方々の魂が祭られている。今、琉球切手発行等さまざまな思い出が走馬灯のようによみがえる。

 小橋川恒一氏(本島南特定郵便局長業務推進連絡会会長・沖縄地方郵便局長会会長等歴任) 復帰が近づく頃、琉球切手がなくなると、郵趣家の多くの方が全国から訪れた。琉球政府も赤字を抱えたままの復帰は大変だから赤字を減らそうと毎月のように新切手100万枚程発行し、最後の切手は350万枚発行。赤字もかなり解消された。業務課営業係長として「復帰10周年記念切手」販売にも携わった。赤字埋めの手段は他にも琉球新報にスポンサーになってもらい、下部に広告を入れたはがきをエコーはがきとして全局発売する歴史もあった。

 上間精次氏(本島南特定郵便局長業務推進連絡会会長・沖縄地方郵便局長会会長等歴任) 沖縄在住の画家が描いた原画を基とする琉球切手207種は人気が高く、発行前夜から那覇東局周辺や与儀公園に何千人も集まり、本土から野宿する方もいた。一方、私が郵便局で仕事をし始めた1949(昭和24)年当時、局には電話交換機があり、「何番につなぎますか」と聞いて先方に「つないでもよろしいですか」と〝つなぐ仕事〟を局が受け持っていた。電報も扱い、電報配達もやっていた。電話交換は1979(昭和54)年にダイヤル化でなくなったが、さまざま懐かしい。 

 天久興太郎氏(沖縄総合通信事務所総括監察官等歴任) 久米島局で4年ほど電話交換手をし、1971(昭和46)年に琉球政府最後の留学生として九州郵政研修所で研修を受け、琉球と日本との相違等を学んだ。翌72年3月に沖縄に戻り、2カ月後の本土復帰で沖縄郵政管理事務所が発足。そこで保険課資金運用係を担当したが、自治体や小学校、公民館等に行くと「かんぽ資金融資施設」と看板が立っていて〝地域とのつながり〟をうれしく思った。

 花城芳克氏(本島南部地区連絡会統括局長・沖縄地方郵便局長会会長等等歴任) 利用者の方への利益還元のために、郵便貯金会館や簡易保険レクセンター等が造られ、雇用やキャンプ、診療所や会議等々にぎわったが、今はなくなった。沖縄経済を支えるパイナップルはオイルショックで生産が落ち込んだが、1986(昭和61)年に本土にパイナップルを発送すると好評で、段ボールによる全国発送が始まった。他企業の宅配便が勢いを増したことで営業部門ができ、局長の皆さん方も取り組まれるふるさと小包で発送するようになり、大中小3箱が「ゆうパック」と命名された。

 松山竹司氏(沖縄支社長等歴任) 1975(昭和50)年7月20日~76年1月18日まで183日間、36カ国と国際機関や自治体、企業出席のもと「沖縄海洋博覧会」が開催された。会期中には「海洋博郵便局」を開局し、県内14名、東京・関東・近畿から9名計23名が会場近くに寝泊まりしながら勤務した。場内3カ所に設けた臨時出張所に行く際には、当時目新しかった電動自動車に乗った。記念切手は大人気で約1億3700万円の収入となり、海洋博局総収入約1億5800万円の9割近くを占めていた。
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〝命(ぬち)どぅ宝〟
今年6月、全国郵便局長会(末武晃会長)の70周年総会が、これまで乗り越えてきた結束の思いを込め、初めて沖縄で開催される。1953(昭和28)年の全特結成時、沖縄は米国統治下にあったため、沖縄地方会も1972(昭和47)年の復帰時に加盟した。
 台風や高潮、高波が発生する沖縄では全国初のポストへの海抜表示シールをはじめ、局長が主体となって「地域防災マップ作成」や「防災教育の手伝い」等を常々強化している。伊志嶺主幹統括局長は「〝命(ぬち)どぅ宝〟と命の尊さを伝えるべく地域貢献していくことが使命」と話す。