ニューレジリエンスフォーラム
全国郵便局長会の末武晃会長も発起人の一人となっている「ニューレジリエンスフォーラム」(共同代表=河田惠昭関西大学特任教授・松尾新吾九州経済連合会名誉会長・横倉義武日本医師会名誉会長)が2月に開催した全国大会では、感染症と自然災害に対する防災の重要性が切実に訴えられていた。レジリエンスの定義は「弾力。復元力。回復力。強じんさ」。代表らの発言の重要性に鑑み、一部抜粋し、2回に分けて紹介する。
どう備えるか、を今
【河田惠昭共同代表】(写真は関西大学HPから転載)
私は47年間、京都大学防災研究所の教員として約1100編の論文を書き、トルコに3度、政府代表として調査に行かせていただいた。首都直下地震か南海トラフ地震が起きると、日本は衰亡すると思っている。
我が国は嫌なことは起こらないことにする国だ。全部、中途半端な形で災害を迎えることになってきた。どう備えるか、を今やらなければ日本は先進国から脱落する。その思いでニューレジリエンスフォーラム共同代表の一人にさせていただいた。
今年は関東大震災100年。同震災は全体で約10万5000人が亡くなり、東京市(現在の東京特別区)では約6万9000人が亡くなった。現在の東京の人口に換算すると約30万5000人と想定される。
大きな犠牲が出た原因は、明治維新後も従来の密集市街地の構造が変わらず、地震時に強風が吹き、広域延焼火災という災害の相転移が発生したためだ。しかし、なぜ大日本帝国憲法が改正されなかったのか。疑問の答えが一つある。
明治三陸地震津波で日清戦争の2倍の犠牲者
1889(明治22)年、大日本帝国憲法が公布されて以来、日本で起こった最大の事件は5年後に起こった日清戦争だった。日本は翌1895(明治28)年4月17日に清国との間で下関条約(日清講和条約)を締結した。戦死者は1万3300人。日清戦争の全国的な戦勝パレードは翌年、旧暦5月5日の端午の節句に開催された。
その日の午後7時32分に明治三陸地震津波が発生。岩手県を中心に約2万2000人が犠牲になった。犠牲者は日清戦争の約2倍も出たにもかかわらず、天災という言葉で片付けられ、被災地以外では忘れ去られた。
27年後、今度は関東大震災が起こり、明治三陸地震津波の約5倍も死亡し、被災地が焼け野原になったにもかかわらず、「天災は忘れた頃にやってくる」との文言が流布され、現在に至るまで仮に国難災害になる巨大な災害が起こっても、現行法の枠組みで対処できると考えられている。
今、首都直下地震が起こればどうなるか。政府や東京都が適用した被害想定手法は古典的かつ不適切で、相変わらず人的な被害は火災と住宅の全壊など倒壊中心の被害者発生を、社会経済被害は必要な項目の中で計算可能な3分の1を推定しているだけで、被害額は少なくとも3倍以上拡大するはずだ。
従来の方法は間違っているといわざるを得ない。なぜなら過去100年の間に首都東京と首都圏は世界にも有数の近代都市圏と変貌した。今想定している首都直下地震が起これば、例えば、間違いなく首都圏全域は1カ月以上の長期広域停電が予測される。計画停電では対処できないのは明らか。
日常的にも、東京電力の供給と需要の差が4%という極めて危険な切迫した状況にあるにもかかわらず、地震による長期広域のブラックアウト発生の必然性を無視している。