東日本大震災から12年 記憶を「記録」に
「あの日」の記憶を、決して忘れない。巨大地震と津波、そして原発事故と、甚大な被害をもたらした東日本大震災から12年を迎えた。震災後、郵便局は支援物資等の拠点となり、局長や社員は愛する地域に希望を届け続けてきた。宮城県東部地区連絡会の今野毅統括局長(石巻立町)に、12年の復興の歩みを伺った。
生きる!地域と 宮城県東部地区連絡会
震災により、東北支社管内で一時閉鎖に追い込まれたのは159局。昨年11月には、石巻市の大原浜局(福田桂太郎局長)が120局目の再開を果たし、小野木喜惠子支社長は「津波被害で局舎が全壊したが、再開がかない、深く感謝申し上げたい」と喜びを見せた。
復興の歩みが進む中、当時の記憶を「記録」として残すため、同地区(石巻市、気仙沼市、登米市、東松島市、女川町、南三陸町)の各局では、震災当時の資料等を1冊にまとめ、局には津波の高さを教訓として表示。避難場所の確認や備蓄品、発電機等の準備も抜かりはない。ほぼ全局長が防災士資格を取得して防災活動に率先しており、「忘れない努力」と「備えの大切さ」を実践している。
震災時の状況について、今野局長が語った。「津波は女川局周辺では40㍍に達した。私の自宅も流され、家族は幸い無事だったが隣近所のほぼ半数が亡くなられた。地区の皆の安否確認をしようにも電話はつながらず、電気もガスも何もかも止まる中、自宅や避難所へ歩いて回り、全員を把握できるまでに1カ月かかった」と振り返る。
その後、被災した局長・社員を集めて「食料班」「ガソリン班」等を作り、日々を精いっぱい生き抜いてきた。営業を再開した局は支援物資の仕分けや配送、お客さまの品物を留めたほか、ホワイトボードに「○○は元気です。△△にいます」などと安否情報を自由に書いてもらい、防災拠点として機能。現金の引き出しや保険の申請に加え、郵便局に行けば情報がもらえると、連日数十人が列を成した。
「人手が足りなくて大変な中、家族を亡くされた社員たちも自分のことを差し置いて、本当によく頑張ってくれた。本社・支社、局長会の仲間からの応援も涙が出る思いだった」と今野局長は振り返る。
局が防災拠点、地元企業と商品開発も
復興に向けて、地元企業と組んだ商品開発にも取り組んだ。三陸産の海藻や仙台味噌などを使った味噌汁「MISO SOUP」(㈲ムラカミ)や、万能和風だしの素「人は登米のだし」(㈱日高見屋)は好評だ。また、マラソン大会や海岸清掃等のボランティア活動にも積極的に参加してきた。
今野局長は「震災を経て、自治体や企業からの期待は高まってきた。皆で一体となって東北を盛り上げたい」と意欲を示す。災害が全国で頻発する昨今、郵便局ネットワークは防災のセーフティーネットとしての役割も備え、地域を支える〝安心の砦〟として、ますます存在感を示している。